何に価値があるのか。

このところ結構凹んでいた。インターンを見事にクビになって以来、自分の無能さに呆れ果て、その一方で自己正当化が進められた。正直に言って何が正しいのかはよくわからないが、少なくとも今は小康状態にある。

有能な人間というのは、どこかで通じ合うことが出来ると思っている。理系の研究者であろうとも、小説家であろうとも、外資系のビジネスマンであろうとも、一流で有能であれば、きっと通じ合う部分があるはずだ。何かで結果を出すためには、一定のパターンを踏む。姿さえ違えど、本質的には同じだから理解しあえるのであろう。

今回のインターンの一件は、その世界に自分が入れないのではないかという疑いを一層強くした。もちろん、自分がノーベル賞を取れる器だとか、年収が10億に達するようなビジネスマンになれるだとかは思っていない。専門分野でも、網野義彦のように日本史を書き換えるような業績は残せないだろうし、ドクターの先輩方や先生方のようにもなれないかもしれない。

だとしたら、自分は何で生きていけば良いのか。どうしたらそういった劣等感を克服し、強く生きていくことが出来るのか。そのことをクビ以来ずっと考えていた。

包み隠さずにいえば、自分は無能ではないと思っていた。それは大学名のようにわかりやすい権威に裏づけされたものではなく、あくまで直感だ。そこまで頭が悪いわけではないはずだ。これまでの勉強の成果(そういう意味では大学ブランドもその証明に思っていることになるかもしれないが)や、勉強の意味を見出したことに関してはある程度の自信があった。

しかし、決して有能ではなかった。あくまで社会のごく一部で否定されたに過ぎないが、そこで働くインターン生が優秀であることは数日で十分感じ取れた。そこに残ることが出来なかったということは、彼らに対して能力の面で劣った人間であるということになる。

比べることによって生まれる価値に、どこまで意味があるかはわからない。むしろ、そんなものに価値はないと思っている。物事を社会的に見ることは必要なことであるが、それを自らの価値観として導入する必要は無いだろう。ただ、社会で生きる以上は比較による価値を受け入れていくしかない。

価値観というものは、自分で好きなように決められるように思えて、決してそうではないと思う。人間が一人で生きていくことが出来ない以上、社会の中で個人を離れた価値観が誕生し、自分が生きる世界の社会的価値観に個人は縛られてしまうのではないか。

例えば、自分は断じてそうは思わないが、「一流大学の学生」といえば社会的エリートである。彼らの世界においては彼ら独特の価値観がある。それは日本社会全体の価値観とはまた違ったものであるだろう。

就職活動のとき(今年は不況で大変であったらしいが)、「一流大学卒」の学生が、その大学のレベルに見合わない企業に就職したとしよう。そのとき、その人のことを何も知らない同じ「一流大学」の学生は何を思うだろうか。

恐らく「何でそんな会社に・・・?」とか「あぁ、ダメだったんだな」といったように否定的な見解を持つに違いない。その人が知り合いの人間であるならば、そういった否定的な見解を持ったとしても話し合いで理解し合える可能性があるからまだ良い。そうでなかったなら、そのまま否定的見解を持ちながら生き続けることになる。

目的を持った人間が、その世界の価値観に合わない行動を採ったとき、その行動は全体からは正当に評価されにくい。むしろ否定されてしまう。しかし、それは断じて正しくない。

世の中にはもっと多様な価値観があって良いはずだ。向上心を持った人間が、共通の価値観から外れた価値観を持ち、本流から外れた動きをしたとしたら、それは積極的に評価されるべきではないか。それが出来ないからこそ、今閉塞感に悩まされているのだと思う。

偉そうなことをいいながらも、自分はその共通の価値観から全く抜けられない。「向上心をもって自分の好きなことをやるのは正しい」と思いながらも、どこかで共通の価値観に従って確実に「間違いのない」道を探し求めているのだ。